1888年外務省を辞めた鄭永慶(ていえいけい)が、現在の台東区上野に開店した「可否茶館」が日本のコーヒーショップの最初です。
日本のコーヒー史上エポックとなったこの店にはトランプやビリヤードなどの娯楽品、国内外の新聞や書籍、化粧室やシャワー室などの設備があったそうです。
この時のコーヒー(ブラック)一杯の値段は1銭5厘でした。
しかし、経営が振るわなかったことに加え、鄭は投資にも失敗して多額の借金を抱えたため、1892年(明治25年)にその幕を下ろし、鄭は日本を去って偽名でアメリカ合衆国に密航したそうです。これって夜逃げ?
それからしばらく経った1911年(明治44年)、画家の松山省三、平岡権八郎、小山内薫がパリのカフェをイメージして4月に開店した「カフェー・プランタン」をはじめ、水野龍の「カフェー・パウリスタ」、築地精養軒の「カフェー・ライオン」など銀座にカフェーと称する店が相次いで誕生します。
それぞれの店は独自色を打ち出し、カフェー・プランタンは「初の会員制カフェ」として、カフェー・パウリスタは「初の庶民喫茶店」「初のチェーン店舗型喫茶店」として、カフェー・ライオンは「初のメイド喫茶」として人気を博した。
また、この頃、暖めた牛乳を提供する「ミルクホール」も登場し、学生などに人気を博ました。
その後、浅草や大阪、銀座、京橋などに次々とコーヒー専門店がオープンし、当時のハイカラな文化人たちが文学や芸術、西欧の思想などを論じる絶好のサロンとなりました。
これらコーヒー専門店の出現で、コーヒーが人々に広く愛されるようになっていったのです。