1826年、長崎県の出島に医師として詰めいたシーボルトは『薬品応手録』にコーヒーの飲用をすすめた一文を載せました。
シーボルトはこう言ったそうです。
日本人は暖かい飲み物だけを飲み、交際的な会合生活を好むにもかかわらず、また200年以上も世界の珈琲商人(オランダ人)と交易しながら珈琲がまだ日本人の飲み物となっていないことは実に驚くべきことである。
日本人は我々と会合するときは好んで珈琲を飲む。
彼は200年以上もオランダ人と交流のある日本人が、いまだにコーヒーを飲む習慣がないのに驚いて、コーヒーは長寿をもたらす良薬として大いに宣伝しました。
ボストン茶会事件で海に茶を投げ捨てられる。以降、コーヒーがアメリカの常用飲料となる。
北アメリカには、17世紀後半にコーヒー、ココア、紅茶が伝わりましたが、イギリスの紅茶の飲用習慣をそのまま引き継いで、当時は紅茶の方が普及していました。ところが、イギリスが、コーヒー貿易の競争でオランダやフランスに敗北し、紅茶貿易に切り換えたことにより情勢が変わりました。イギリスは「茶条令」の発布によって輸入紅茶を独占した上で、価格をつりあげ、重い税金をかけたのです。これに怒ったアメリカの人々は、ボストンに停泊していたイギリスの東インド会社の船を襲い、積み込んであった紅茶をすべて海中に投げ捨ててしまいました。これが1773年に起こった「ボストン茶会事件」です。
この事件を機にアメリカはイギリスからの独立の気運を募らせたとともに、紅茶よりもコーヒーを好むようになっていったのです。
コーヒー栽培に適した地域(赤道をはさんで南北25度の地域)をコーヒーベルトと呼びます。
日本はこのベルト地帯には入っていないので、栽培に適した地域ではありません。しかし、実は明治時代に国産コーヒーを作ろうという試みが実行されていたのです。
明治11年10月16日発行の新聞には、10名の農夫、頭取世話役1名、農具、それにコーヒーの苗木を積んで小笠原島へ向けて船を出す旨が記事になっています。
現地に官舎を建ててまで取り組んだコーヒー移植は、さらに明治17年4月29日の新聞で、明治15年には12キロほどのコーヒーが収穫できたことが記載され、順調に生育していたことが伺えます。
しかし、その後、移植した6種類のうち4種類が枯れ、1種は育っても結実せず、1種は風害に弱いことなどが判明しました。また採算と言う点においてはサトウキビにかなわないこともわかり、当時の小笠原島へのコーヒー移植は失敗に終ってしまいました。
しかし、現在ではコーヒー栽培に取り組んでいる農家も少しずつ増えてきて、少量ながらもコーヒーの収穫に成功しています。