マロンズコーヒーブログ

  • 習慣的にコーヒーを飲んでいる人は、コーヒーを飲んだからといって血圧が上がることはありません。コーヒーを一定期間飲んでいない人の場合、数ミリ程度のわずかな血圧の上昇が見られますが、これは活発な会話や運動をしたときよりも小さな上昇です。そして、どのような場合でも2~3時間後には元に戻ります。また、コーヒーへの耐性はすぐにできるので、コーヒーを普段から飲んでいる人の血圧が高いということはありません。

長崎出島といえば、ヴェルツブルグ大学で医学を修め、1823(文政6)年に長崎出島の商館医師として赴任したシーボルトです。

彼は、仕事のかたわら日本の自然と文化を研究し、『日本動物誌』や『日本植物誌』を著しました。

そんな日本の生活の中で、シーボルトは日本がオランダと200年も交易があるにもかかわらず、コーヒーが広まっていないことに疑問を抱いていました。

そこでコーヒーの普及計画を、当時のアジアの交易の中心であった 「東インド会社」に提言しています。

医者であるシーボルトの考えは次のようなものでした。

「コーヒーは生命をのばす良薬で、特に日本のような国こそ、保健薬としてこれを用うべし、と勧めることである」。

このように日本ではコーヒーが伝わった当初から、多くの蘭学者や医師たちが健康に寄与する飲料としてコーヒーの文献研究とその普及に関わっていました。

『体を暖め、勇気を引き出してくれるこのコーヒーを兵士達に与えよう。

余の作戦と優れた兵士達がいれば、世界は余の手のひらにあるも同然』
軍隊の飲みものにコーヒーを初めて採用したのはナポレオンでした。
ナポレオンがまだ一介の兵士だった頃から、コーヒーはいつも彼の回りにありました。

フランス大革命時代、彼がよく通ったのはカフェ「イタリア」。

ここでは子爵バラス候にかわいがられ、出世の足がかりをつかみました。

 1797年、ウィーンに入城したナポレオンは、手にしていたコーヒーカップを床に落とし、粉々になったカップを示して『余は貴殿方の国をこのようにできるのである』と講和条約を拒み続けるオーストリア政府を恫喝し、将軍たちをさらにふるえあがらせたと伝えられています。
そして1806年、ベルリンに入城した彼は、残る最大のライバル・イギリスを標的に大陸封鎖を行います。

イギリスの海上貿易に大打撃を与えようという狙いでした。

しかしその結果は、思わぬフランス民衆からの反発でした。

『我々の愛するコーヒーを返せ!』
フランスが輸入にたよっていた砂糖とコーヒー豆をも、ナポレオンの作戦は封鎖してしまったのです。
なぜか常勝ナポレオン軍の神話は、それ以後消えていきました。

コーヒーを愛した英雄は、コーヒーを敵に回したことで、あと一歩だった夢の実現を打ち砕かれてしまったのかもしれません。

 ヨーロッパにコーヒーが上陸してから100年以上を経過し、コーヒーはその薬効作用による広まりから、次第に深い味わいと独特の香りによる愛好者を増していくようになり、政治や文化の檜舞台にも登場するようになったのです。ナポレオンのエピソードは、コーヒーが政治の舞台に登場した代表的な例です。

日本に初めてコーヒーが上陸した頃のお話です。

ヨーロッパではコーヒーが伝わってから約200年を経て、コーヒーは西欧の人々の生活になくてはならない飲みものになっていました。

一方その間、鎖国政策をとっていた日本は世界のコーヒー文化から取り残されていたのです。

日本では、長崎・出島が西欧の文化に触れることのできる唯一の場所でした。

コーヒーがオランダ商人によって日本に伝えられたのは1600年代初め、長崎・出島のオランダ商館での出来事でした。

初めてコーヒーを飲む名誉を与えられた日本人は残念ながらわかっていませんが、当時、オランダの商人と会うことができたのは、役人、商人、通訳、遊女だけ。

本当に限られた日本人のみが商館への出入りを許されていて、その中に初めてコーヒーを飲んだ日本人がいるのかもしれません。
文献「長崎寄合町諸事書上控」の中には、長崎丸山の遊女が貰った物の一つとして「コヲヒ豆一箱。チョクラート」という文章があります。彼女たちがここでコーヒーを飲んでいたことが想像できます。

この彼女が、日本最初にコーヒーを飲んだ人か定かではありませんが、このような遊女が最初に飲んだ可能性はあると思います。

 

 大航海時代をむかえ、コーヒーはイスラム世界を飛び出し、有力な交易品として、南アジア、東南アジアに伝わり、ヨーロッパに上陸しました。

 しかし、人々の間では「コーヒーは異端者の飲みものであるから、キリスト教徒は飲むべきではない」というような話が蔓延しました。

そんな時、キリスト教徒にコーヒーの飲用を許可したのが、法王クレメンス8世です。
コーヒーを試飲した法王は、「悪魔の飲みものだというのに、コーヒーがかくも美味であるのはどうしたことか。

むしろ異教徒に独占させておくのはもったいない。

余はこれに洗礼を施し、キリスト教徒の飲料たる資格を与えよう」と答えたといいます。
なんと粋なはからいでしょう。こうしてコーヒーは市民権を得ることになったようです。※1

 またヨーロッパ各国の医師たちの活動も見逃すことはできません。
エジプト、トルコを旅行していたドイツ人医師ラフォルトは、シリアで初めてコーヒーに出会いました。

帰国後の1582年に「シリア人はよい飲みものを持っていて、非常に広く飲まれ、彼らはそれを“カヴェー”と呼んでいる」と、『シリア旅行記』の中で紹介しています。
また、英国人医師で、血液循環の発見者であり、ジェームス1世とチャールズ2世の侍医でもあったウィリアム・ハーヴィーもコーヒーの啓発者のひとりでした。彼らロイヤル・ソサエティ所属の秀才たちは研究を重ね、コーヒーは活力を出し、かつ頭をすっきりさせ、何よりも胃に良い健康促進剤であるとしてコーヒーを賞賛し、普及させていったようです。
またフランスでは、カフェ・オ・レが広く家庭で飲まれました。

これは1685年、名医シュール・モナンがコーヒーにミルクを混ぜ、医療に用いたことがそのきっかけだったといいます。

 コーヒーは、薬としての効用を大きな武器に、医師たちから強い支持を得て広く普及してきました。
しかし、もちろん、コーヒーが大変な勢いで広まっていったのは、深い味わいと独特な香りが人々の心をとらえて離さなかったからに違いありません。

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